カオス

Chaos[カオス]と、聞くと簡単に、無秩序、混沌、など、あまり前向きでは無い状態を感じてしまう。確かに翻訳してみれば、必ず、無秩序、や混沌という文字にぶちあたる。この世が因果律によって成り立ってるのであれば、意味の無い物はなく、全てが原因と結果な訳だ。だとすれば、カオス自体は原因なのかもしれない。聖書を読んでも日本の神話を読んでも、惑星、いわゆる地球が出来る前の状態にもカオスが見られるし、宇宙創造以前の事を現す時もこの言葉を使う場合がある。惑星形成で例えれば、聖書や日本の神話に見る天も地も無い状態だ。カオスが無ければ実の所何も始らないのかもしれない。カオス状態はいわゆる準備の状態として受け止めてみよう。心の場合もそうだ。深い混迷に入れば誰の心もカオス状態に陥る。しかし、それは新しい何かへ変容する時の用意なのかもしれない。精神を病んでる人の心は大体にしてカオス状態だろう。心を病みやすい人の特徴で一番大きいのは「自分を自分で好きになれない」人だ。誰しも自分の好きになれない部分は持っているが、これが平均値より高い人は病みやすいだろう。えてして、そんな人に限って恋人や友人を欲する。自分自身の弱さゆえに愛や共感を求めてしまう。それはいわゆる依存型の恋愛だったり友情だったりする。そしてその人は自分自信が好きになれない自分というものを愛しているはずの人に献上している。それに気づき、さらに矛盾に入って行く。友人や恋人にプレゼントや贈り物をあげるとき、大体の人はまず、自分も気に入るものを探す。もちろん相手の側に立ちながら考えても、その中に大なり小なり自分の好みが入ってくる。相手が受け取ってうれしいもの=自分も、もらってうれしいものであれば価値観も共有できている証しになるであろうし、それを計る尺度にもなるだろうし大多数の人は自分自身も好きになれるものを渡す。しかし、心を病んでる人は、物質的にプレゼントをする時はそうかもしれないが、自分自身を献上している事に当たっては、逆なのだ。自分自身を好きになれえないのに、好きになれて無いまま、寂しさ故恋人や友人を欲してしまう。まずはそんな人は自分自身をいきなり好きになる努力をするより自分自身を「許す」努力を初めなければならない。存在自体許せないものを好きになるなどありえないのだから。自分自身をいきなり好きになろうとしても無理なのだ。まず、許す事から始めなくてはいけない。心の病んでる人は常にカオスの中にいると思う。しかし、カオスが何かしらに対しての準備であればカオス状態は一種のチャンスなのである。もし自分自身の存在を許し、次に肯定し、そして好きになる事が出来たら、矛盾は消え、依存型の恋愛やパートナーシップなとこから抜け出す事ができる。依存型の恋愛や友情の場合、恋人や友人が自分の精神安定剤になっているものだ。「それがあるから安心。そこにあるから安心」そういう形をとってしまう。これは本当の愛や友愛には至らない。もし自分自身を好きになる事ができて、依存型の愛情や友情から脱する事ができたら、本当に相手に必要なものをプレゼントできるかもしれない。もし、愛している異性や友人を深く洞察してみて、その相手のためには自分以外の誰かが必要だと思った時、例えば恋人だとすればその恋人の前の彼氏など、友人だったら、その友人が昔仲良くしていた友人 ー これらを相手に与える事によって自分が一緒にいるより相手が幸せになれる可能性が高いと思ったなら、愛ゆえに愛を捨てる事ができるだろう。最終的に、「求める愛」ではなく「与える愛」になるだろう。簡単な事では無いが本当の愛情や友愛があるのであればそれくらいできるだろう。もしあなたの心がカオス状態だったら、まず、それは何かに対する予兆だと思ってみよう。カオスに対する見方の角度を変えるのだ。それから自分を許す努力をし、次に自分を肯定する努力をする。そのためには過去は優しい目で眺め、未来は眩しく見上げ、今を鋭い目で睨みつけなくてはならない。それが出来れば新しい心の方向が一筋の光のように、または蜘蛛の糸のように見えて来るだろう。まずはカオスを肯定するのだ。陰と陽は常に一緒で、カオスが陰であり、原因であれば、もうすでに結果はあるのだ。ただそれに至る方法に気づいていないだけ。いや、気づけないだけなのだ。一度自分自身を破壊してみれば、そこに至る方法が意外な所に見つかったりする。