魂の習慣

魂の習慣と生活習慣が同化してないだろうか?



周りの人々は思いっきり「今」を見据えて生きているのだろうか?
と、たまに思う。

例えば、生活習慣の中で自分の家への帰る道のり、
この道を曲がって次の角を右に行くと自分の家に到着だ!
と、考えながら歩く人はいるだろうか?
最初のうちはそうかもしれない。
しかし人間には学習能力があるから、覚えると無意識のうちに
自分の家へたどり着くことができる。
普通の人は普通に無意識に帰れる。


しかし、これが生活習慣であり、魂の習慣でもあると思うと寂しい。


だから一週間のうち何回かは通る道を変えてみる。
そうすると色んな事に気づく。
あそこにこんな店があったのか?とか、
この横断歩道の白線はこんなに本数があったのか、、等と、
気づけば色々ある。


習慣は時として恐ろしい。
最も恐ろしいのは、
生活習慣と魂の習慣が、同一化し毎日が繰り返しでしかない事だ。

習慣が何年も続いたり生まれたときからしつけられたりしてると、
それが当たり前になってくる。

自分は常に夢を持って生きてきたから夢を持ってない人の気持ちが
正直昔はわからなかった。
「あの人はこのままここで何十年も働いて死ぬのかなぁ?」
なんて考えていると寂しくなり、そして自分の持っている幸せの概念が、
根本的に他人とは違うんじゃないかとも思った事もある。
「普通」に生きることや普通の人が望む幸せがわからなかった。
だから、自分は魂の障害者なんではないかと昔は思った。


しかし、自分はいつも「今」を意識している。
そして自分の中で誇れる事は
いつも「気付こう」として行動している事だ。


「気付こう」という魂の習慣は人生に色を帯びさせてくれる。
そして今という瞬間を大切に思わせてくれる。


その「気づき」こそが人生を意識させてくれる。
その「気づき」があるから今を思いっきり生きていける。