瞑想と集合的無意識

下記瞑想については一度この日記内で言及している。

数年前に、私が瞑想中に見たビジョンを記しておきたい。見たと言えば良いのか、感じたと言えば良いのか、何せその一連のビジョンの中には、言葉にしがたいところが沢山ある。

なぜなら、今この世に存在するものに例えるのが難しいと言うか、、、、また、視覚を持って『見た』というのとも異なる。

とにかく感じたのだ。私の全霊をもって。それだけ貴重な体験は何とか残しておきたいので、何とか言葉にすることに踏み切った。以下がその体験。

「めったに無い程の深い瞑想状態だった私の体の中心を下から上へと何かがほとばしるような感覚におそわれた。これは内分泌腺が一気に開いたものだとわかっていた。いわゆるチャクラだ。

一時、とても眩しい光が見えた。そしてトビラが開かれた。

まず、そこは何に例えれば良いのだろう。無理に例えるとするなら、それは湖のようだった。魂の湖とでも言えば良いのだろうか。

その湖の様なものを原子,分子の様なものが、規則正しく一つの物質を造る様におりなしていた。

湖の様なものに、ただ漠然と『果てしなく無限の全体だ』と感じた。それを包括しうるスペースなどなく、それ自体がスペースであり、また無を感じた。

これこそが全ての魂のエッセンスであり、魂が最後に帰る場所だと感じた。

この無限の霊の湖と言うか魂の湖みたいなものを、呼びやすいよう原魂(げんこん)と名付けてみよう。

原魂をおりなす構成要素の水分子の様なものは、互いに引かれ合い、支え合いお互いの位置を確保しながら、一つが全体を、全体が一つを支え合っていた。

まるで現実界で言う万有引力の法則のようだった。この原魂こそが、魂の集合体であると感じた。自分が見ているのは、魂の原初である。そこに時間は流れていなかった。

なぜならそこにはまだ時間を感じる「意識」は何も無い。また発展も後退もなく、物事の発生がなく、従って全てが科学でいうところの複雑の矢の方向に向かっていないからだ。

それは「ただそこにある」だけだった。どこから来たのでも無く、それ自体が全ての方角をうめ尽くしていた。

私はそれからややしばらくその状態を見続けていた。いや見続けていたと言うのか、それともその中に紛れ込んでいたのだろうか。

ある時、変異が訪れた。なごやかなユラギと言えば良いのか、風と言えば良いのだろうか、そこに無かった感覚がとにかく何処からともなくやってきた。

原魂を造りうる原子の様なものの、ある一つの中に動きがあった。

それを仮に『彼』と名付けておこう。私は彼が意識を持ったように見えた、いや感じたのだ。

この時こそが魂の誕生であった、先駆者の誕生であった。これこそがキリストの言うところの父であり神であり仏陀のいうところのブラフマンだと感じた。

私は魂の誕生の瞬間を見た。そして私は彼が感じたことを解る様になった。
ヴァイブレ−ションとでも言えば良いのだろうか。当然の事ながら彼に言葉など無いし、ヴィジョンなどない。

ただ私の心の中にはそのヴァイブレ−ションの様なものが私の心に入ってくる時、地球的言語に置き換えられて入ってきた。私は「無」から「有」へ移行する瞬間を見た。

私の感じたところ、すでに彼は、その世界と自分について、ふっては湧いてくるような疑問を一つ一つ解決していた。

その世界が無限である事、完全な規則性、そしてなぜ自分だけが、意識を持つようになったのか?...

しばらくして彼は、自分の他にも目覚める事ができるのかを、考えていた。孤独からではなく、他の者たちにも、自由意識を持つ喜びを与えたいと思ったのだ。

その時、初めてもう一つの、魂が生まれた。そこで彼は悟ったのであった。この時彼は、自分には、信じる心、与える愛があり、それがとてつもない力を生み出したのだと。

この時こそ、彼は真の神と呼ばれうる資質を生み出したのだ。彼がもう一つの魂を目覚めさせる事ができたのは、個々が全体を造るために、全ての個に対して、張り巡らせている糸のような物が、あったからではないかと、彼は考えた。その糸の上を、『求める』ではなく『与える』という気持が、微妙な振動を起こしたのだ、と考えた。

それが、もう一つの魂が生まれた、要因になったのだ。私は、この時、すでに愛という既念が、存在している事に気付いた」


これはあくまでも途中で最近は瞑想をする暇がない。

これ以上のヴィジョンはいまだ見たことがない。

宗教的に感じるだろうが自分はどこの宗教にも入っていないしいかなる新興宗教にも興味を持っていない。

ほどなくして当時よりユングの心理学にドップリと浸っていった。
彼も瞑想をしょっちゅうしていたのだ。そして宗教と心の考察を彼は行っていた。

それから自分は集合的無意識についての考察を重ねた。
瞑想が医学的にも良いという事も勉強していくうちにわかった。

後々色んな学問や神秘的な所も踏まえた上で自分は人間の意識を下記のように割り振りできるのでは無いかと思い書き留めた。

これは24歳の時の体験で下記は25歳の時に書いたものだ。
いかにも仮説である。

下記の前提として心的なものは全て世の中のものに例えられるという仮定のもとで書いたものだ。

「仮説

層序学的な見解。内分泌腺の数との相応を考慮した上での仮説。
人間と水分の割合、地球の海と土地の割合も考慮した上での仮説。

大前提。この世にあるものは心と相応しているという観念の元の仮説。
また、無視できない「魂」という観念も含まれる。
その中で0〜10=計11の意識を提示する。

●現代人(同一性を獲得している)の意識の構造。

意識を海底火山に例える。
海面から顔を出している部分が顕在意識とする。また火山に例えるなら当然意識には噴火口があるものとする。なお、噴火口は0層までのどの階層ともリンクしている。噴火口の理論を使えば共時性がどのようにして起こるかも説明がつくが今回の仮説では共時性の事は触れない。

なお、海中は知識や見てきたもの、とりまく環境とする。

海面下より無意識とする。山に例えるならば実際の山と同じく何層もの地層に別れている。

上から

第10層

顕在意識。現在考えている私たち。思考で意識できる部分。

以下海面下

第9層 

個人の無意識。母の腹にいて心臓が動き始めたときよりの普段意識できない記憶。幼いときの記憶、圧縮された記憶。抑圧、否認などの適応機制により出来上がった心的複合。アニマ、アニムス、シャドー、ペルソナも含む。夢。

第8層

家系の無意識。家系により出来上がった無意識層。家族の習慣、伝統、癖、家族の持つトラウマなどを引き継いでいる。遺伝との関わり合いが強い。

第7層

国家の無意識。生まれた国が持つ宗教性、価値観、習慣、伝統、癖、国家の持つトラウマなどが潜む層。

第6層

民族の無意識。人種が持つ価値観、習慣、伝統、癖、国家の持つトラウマなどが潜む層。

第5層

人間(地球人)としての無意識。人間としてしかるべく持つ習慣、癖、人間としてのトラウマが潜む層。

第4層

動物としての無意識。動物としての本能が潜む層。基本的欲求の元となる無意識層。「生きたいと欲する意識」自己より波状する生殖欲求も含む。

以下海底以下の無意識。(海底以下の地層)

第3層

生物としての無意識。動物以前の生物としての無意識層。第4層より穏和かつ欲求が無い。決定的なのは「生きようとする意識」か「生きたいと欲する意識」であり、こちらは「生きようとする意識」生殖を自己から本能的に望んではないない。自然との対話において自動的になされる生殖。なされない場合もある。

第2層

魂の無意識。前世や前々生の習慣や癖、トラウマが見られる層

第1層

集合的無意識。いわゆるマグマに当たる部分。意識を持つ全てのもの(肉体を持つ持たないに限らず)達が共有しあえる部分。あらゆる叡智や生物が貯蓄したあらゆる記憶を持つ層。

第0層

超越的無意識

魂の在処。根源。もはや意識とは呼べない層。魂に意識が宿る層。」


要するに超越的無意識とは瞑想の時見たビジョンを指している。
これはあくまで仮説であり、多分一生かけても立証できないかもしれない。
なぜならユング集合的無意識自体がいまだ立証できないからだ。
その上を書いてしまっているし、意識の11分割も臨床で何度か手に取るような体験もあったが自分はそれを録音した訳でも無いし、たった数人の臨床では立証できない。しかもユングの言う所の集合的無意識自体を分割しているのだから。


瞑想や禅によって人は集合的無意識や、自分の言う超越的無意識を体験できると自分は信じている。
もちろんこの理論に反論は山のようにあるだろうが自分が経験した事なのでここに書かせてもらった。

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